幌月寒高校マンドリンクラブOB会
「月高万度臨苦楽歩」歴史探検隊


1.「月高マンドリンクラブ」設立の経緯(2013.3.23)
2.「演奏旅行」(2013.3.30)
3.OBノート(2013.4.6)
4.マンドリンクラブ出身の先輩たち(2013.4.13)
5.定期演奏会のはじまり(2013.4.20)
6.


1.「月高マンドリンクラブ」設立の経緯

 「月寒(つきさむ)」は、札幌市豊平区にあります。札幌市営地下鉄東豊線の南端に、「福住駅」があります。そこは札幌ドームの最寄り駅として知られていますが、その1つ北側に戻ったところに「月寒中央駅」があります。
 その月寒にある北海道札幌月寒高等学校、通称「月高(つきこう)」は、1950(昭和25)年に開校しました。
 月高の校歌を作曲された音楽教師の津田 甫先生(つだ・はじめ。1908-1989)が着任されたのは1952(昭和27)年。開校3年目のことです。その翌年つまり1953(昭和28年)年、月高は豊平町立から道立高校に移管されました。
 道立移管の際に、豊平町の町民の方が寄付金を募り、学校にピアノを1台寄贈してくださいました。
 この寄付金に余剰金が出て、その使途について津田先生に一任されることになりました。
 津田先生はこの余剰金をどうしようか熟考の末、購入することにしたのがマンドリンでした。
 マンドリン合奏団を編成したいと当時の校長に申し出て、校長が喜んで賛同されたそうです。
 とは言っても当時は終戦直後。楽器を入手するのは相当困難だったようです。
 しかし幸いなことに、楽器店のご協力により、あまり高級な品ではないものの、楽器が集まりました。
 でもなぜ、マンドリンだったのでしょうか。
 津田先生は当時のことを振り返って、次の言葉を遺しています。

  マンドリンは目が押さえられるから、音さえ合わせればいいし、それにあまり上手でないのを入れても、途中で間違えたらその時はそこでやめて、都合の良いところからまたやればいい。
 だから上手も下手もみんな楽しめるし、その結果だんだん巧くなるというわけで、物のあまり豊かでなかった頃に生徒の心をとらえたのだと思います。

 そのような経緯で楽器が集まりました。これらの楽器を偶然見つけた人たちによって、マンドリン合奏団が編成されることになります。
 創部した頃のメンバーの一人である所さんの述懐をまとめると、次のようになります。

高校1年の時、仲間と悪戯に明け暮れていたある日、音楽室にギターとマンドリンを見つけた。
所詮我々には猫に小判。ところが我々の仲間にも風流人がいた。
彼の奏でるギターの調べ「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」に魅了され、急にギターを慕い出した4人の仲間。
週に2度、津田先生のお宅で練習。本当の目的は練習後に出るお菓子と先生の昔話だった。

 練習の成果で多少音が出始めると仲間も増えて、7人で合奏をするようにもなり、「マンドリンクラブ」と命名したとのことです。
 所さんが3年生の時に、新入生歓迎会で「校歌」「鞠と殿様」「森の小山羊」等の合奏を行い、その結果どっとたくさんの1年生がマンドリンクラブに入部しました。記録によりますと現在のOB会員、所さんたちがいた3期(1955年卒)は6名、5期(1957年卒)は12名となっています。現在OB会員500名近くを数える月高マンドリンクラブは、このようなところから始まりました。

(北海道札幌月寒高等学校開校30周年記念誌の記事より再構成しました)


2.演奏旅行

 月高マンドリンクラブでは、毎年夏休みに演奏旅行を行っていました。
 創部の頃は楽器が足りず、数台の楽器を数人で共有して演奏しているような状態でしたが、部員が徐々に増え、足りなかった楽器が人数分行き渡るようになって、部活動が活発になりました。
 そして道内各地に演奏旅行をしに行くことになったそうです。
 最初の演奏旅行は1956(昭和31)年、網走へ行きました。
 津田 甫先生の教え子で高校教師をしていた、網走南ヶ丘高校の山口裕幸先生のご招待で旅行を行いました。当時は南ヶ丘高校にもマンドリンクラブがあり、合同で演奏を行いました。帰りは南ヶ丘高校の部員の皆さんが、網走駅まで見送りをしてくださったそうです。
 奇しくもこの年の6月に網走市オホーツク水族館が開館しており、演奏旅行に行った部員たちは水族館を見学したそうです。ただ、この水族館は惜しまれつつ2002(平成14)年に閉館しました。
 この演奏旅行で演奏した曲は、「オホーツクの海」(伊福部昭)、「カルメンシルバー」(イヴァノヴィッチ)、「水族館の歌」、他だったようです。
 演奏旅行はその後、月高マンドリンクラブの恒例行事となり1990年代まで続けられましたが、部員の減少とともに行われなくなっていってしまいました。
 管理人は、演奏旅行に4回行きました。高校生の時に2回、OBとして2回です。私たちの頃は1〜2年生が演奏旅行へ行くことになっていました。
 現役部員の時は、新冠町と小平町へ行きました。新冠の時は、特別養護老人ホーム「恵寿荘」へ慰問演奏に行きました。この時、5人のOBが一緒でした。小平町では、知的障害者更生施設「おにしか更正園」へ慰問演奏に行きました。この時もOBが6人一緒に行きました。当時は現役とOBの絆が深かったのです。昼は練習、そして慰問や見学、夜は今後の部のあり方を激論という2泊3日だった記憶があります。
 OBになってからは函館市と夕張市へ行きました。函館では市内の野外で演奏をした記憶が残っています。夕張の時は私は車を買った翌年だったので車で行きました。大雨の中、宿舎からバスターミナルまで現役部員を何回かに分けて輸送したという記憶が残っています。(演奏旅行行き先一覧はこちら

(北海道札幌月寒高校マンドリンクラブ創立30周年
記念誌の記事などから再構成しました)


3.OBノート

 管理人がいた頃の月高マンドリン部では、気軽にOBが訪れて、現役部員に指導したり、一緒に演奏をしていったりしていました。
 私の記憶では、OBの皆さんは結構厳しいことを書いていたような気がします。時には愛のムチだったり、時には現役に対する叱咤激励だったり、時には昔の思い出話だったり、時には演奏法や編成のアドバイスだったり。
 これが毎年秋の定期演奏会の前になると、練習のために月高にやって来たたくさんのOBの皆さんが、思い思いにいろいろ書いていっていました。
 それを読んだ他のOBも返事を書いたり、時には現役もそれらへの返事を書いたりしたようです。月高マンドリンクラブ30周年記念文集より、当時の校長・塚原春樹氏の寄稿文を引用します。

 マンドリンクラブの部室には、クラブ日誌の他に、OB日誌が置かれており、暇を見つけては入替わり立ち替わり部室を訪れて指導助言して下さるOBの皆さんが、部員の激励や、感想等を書いて下さっています。OBの皆さんによる経済的援助の話は良く聞くところでありますが、(勿論マンドリンクラブのOBの皆さんも大変なご高配を下さっています。)OB日誌と言う、こんな素晴らしいものの置かれていることを他に聞くことがありましょうか。私は三十余年、十校余の学校に勤務して来ましたが、勤務校は勿論他にもその例を聞きません。
 本校マンドリンクラブが全国的にも稀な三十年の活動の歴史を閲したと言うところの鍵は、このOB日誌にあるのではなかろうか。そしてそのことは単に同好者の集まりという域を越えて培われた「友愛」と、後輩に対する深い「いつくしみ」の心によるものと思うところであり、OBの皆さんに対し深甚の敬意を申し上げる次第です。

(塚原春樹「創部30周年を祝す」、『彩-北海道札幌月寒高等学校マンドリンクラブ創立30周年-』(1984年、OB会事務局))

 もちろんこれは30年前の話なので、今の現状とはいろいろ異なっている点があることをお断りしておきます。そもそもOBノート自体がもうありません。ただ、当時の校長がOBノートについてここまで踏み込んで書いてくださっていることに対して同慶に堪えません。
 (ちなみに塚原校長は私が月高生の時も校長先生でしたが、朝会の時に毎回ほぼ必ず口にする言葉が「喜びに堪えません」「同慶に堪えません」でした。懐かしい)
 私が現役時代にあったOBノートですが、OBになってからも、特に大学生の頃に演奏会のためやそれ以外にも月高を訪れていた時期があり、OBノートにいろいろ書きました。
 そのような、現役部員とOBとの絆だけでなく、OB同士の絆をも結ぶ役割を果たしていた、OBノートでした。


4.マンドリンクラブの先輩たち

 ここでは、月高マンドリンクラブに在籍し、卒業後に特筆すべき活躍をされている方々をご紹介します。なお、他にもこんな人を知っているという方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えて下さい。

 福島尚彦氏は、月高卒業後東京大学に進み、その後オーストラリアに渡って長年大学で学生に日本語を教えられました。ある年の定期演奏会にオーストラリアから駆けつけ、ギター奏者として出演しました。この時私もマンドセロで出演しましたが、福島氏は立派な髭を顎に蓄えた紳士でした。オーストラリア文化情報ウェブサイト「ユーカリ」に掲載されたインタビュー記事はこちら

 水谷正志氏は、北海道学芸大学(現在の北海道教育大学)を卒業後、NHK札幌放送管弦楽団を経て、札幌交響楽団のヴァイオリン奏者となって活躍しました。特に1981年から1986年まで、札幌交響楽団のコンサートマスターを務められました。札幌交響楽団の会報「札響くらぶ」による紹介記事はこちら

 井筒和幸氏はピアノ調律師です。ピアノ調律の傍ら、鍵盤楽器をはじめ様々な楽器を修復し、「さわれる楽器博物館」を主宰しています。また、新聞社系の文化講座での「民族楽器の宇宙」「人間と楽器の歴史」や、大学での「体験型博物館の出前」など、ユニークな楽器講座を行っています。2013年現在、月高マンドリンクラブOB会会長ですが、それだけではなく札幌月寒高校同窓会「つきさっぷ」会長としても活躍されています。HP「井筒和幸の楽器博物館」はこちら

 能代秀生氏は、全道の幼稚園や小学校でマーチングバンドの指導者として活躍しています。1989年に北海道で開かれた「はまなす国体」開会式鼓隊の構成演出を担当されました。この時の国体は冬・夏・秋の完全開催でしたが、その3度とも構成演出を担当されています。HP「幼児と小学生の器楽合奏「北研究社」」はこちら

 工藤重典氏は、日本を代表するフルート奏者として世界中で活躍されています。第1回ジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクールでグランプリに輝いています。私が月高在学中に来日され、学校を来訪されてお目にかかりました。その他、演奏会も何度か拝聴しました。旭川でリサイタルを開かれた際も、終了後に楽屋で会っていただけました。2009年に札幌月寒高校開校60周年記念式典が行われ、その時にマンドリン部と協奏曲を演奏しました。所属事務所KAJIMOTOによるプロフィールはこちら


5.定期演奏会のはじまり

 第1回の定期演奏会は、1979(昭和54)年9月15日に、共済ホールで行われました。
 初めての定期演奏会でしたが、この時点で創部27年目でした。演奏会のプランは、卒業後様々な団体に所属したり、様々な演奏会に出演したりしていたOBのノウハウが基本になりました。
 3部構成で、第1部は現役部員の演奏、第2部はOBステージ、第3部は現役・OBの合同演奏という形式は、この時に生まれたものです。
 初めての演奏会を成功させようという思いの余り、きつい練習があったり、部内での衝突も起こったりしたという話ですが、目標はみんな一つ、演奏会を成功させるということに向かっていたようです。
 それまでも毎年行われていた演奏旅行にも合宿の要素が増え、また本番前の日曜日もOBとの合同演奏の練習に費やされるという日々になりました。
 最後の曲「ペルシャの市場にて」終了後、しばらく鳴り止まない万雷の拍手。そして楽屋で号泣する部員たち。やりきった、やってよかったという思いが会場を包んだとのことでした。
 定期演奏会の曲目一覧はこちら。
 定期演奏会は第18回まで行われ、その後部員の人数減のため12年間の休止の後、2009(平成21)年に第19回定期演奏会として復活して現在に至ります。OBも何名か出演しているものの、従来行われていたOBステージとかはないようですが、私の個人的な意見としては、いずれOBのステージというのもあってもいいのかな、と思っています。縦糸と横糸との精神的な絆としての位置づけの意味でも、そう思います。
(創部30周年記念誌、開校30周年記念誌の記事より再構成しました)